my last day

この度引っ越しをしネット難民になっていたこともあり、全く更新できませんでした。数度アクセスしてくれた物好きがいたら申し訳ない。

報告から入りますが、この度WEEDを去り、競技から降りる事にしました。40を過ぎてからの衰えに対応できず、足を引っ張るばかりでした。本当は1シーズン前に辞めるつもりでいたのですが、ついつい楽しいこともあり、後輩たちに甘えてしまい続けてしまいました。感謝です。そういうこともあり悔いがないわけでありませんが、はっきりとした満足感もあります。振り返ってみれば2002年に初めてボールを蹴ってから今日までいい思い出ばかりで、これ以上を何かを望むなんて欲張りすぎだろう。師、先輩、後輩、敵に恵まれました。フットサルに打ち込んだこの時間の中で得たものを思えば、僕は幸運な男に間違いありません。残念に思うことがあるとすれば、それは公式戦のあの雰囲気や緊張感、痺れるような場面で感じる仲間との連帯感、自分の最大限を発揮しようとするあの瞬間瞬間を味わえなくなることかな、なんて思っています。まあ、本当はたくさんあるのですがそれは僕の心のことであって、人様に読んでもらうことでもありません。

このブログがスタートしたのもフロリのスタートと一緒でした。あくまでも内輪の話ばかりであり、なるべく広まらないようにSEOも設定せず、検索に引っ掛からないように個人名はカタカナ表記にしてきました。書いているのも僕、デザインしているのも僕、かなり個人的なものではありましたが、読むのはチームメイトと小さな範囲での周りの人たちが前提でした。あくまでもチーム活動あってのものだったので、このブログもここで終了となります。ログは暫く残しますが、そのうち削除しようと思います。時々読み返すこともあって、当時の気持ちや空気を思い出すことがあって楽しかったりしますが、意味もなくずっと残すのも変な感じもします。

いつかこういう瞬間が来るだろうなあ、と大きな怪我をした時によく想像してました。自分自身に諦めを許す時が、もしくは身体的にプレイ出来なくなる時が。本当の終わりはずっとずっと苦しくて、実にあっけなかったです。ありがとうございました。次はインスタだ!笑

上手くいかないもので

 昨日の試合は敗戦の上、試合前の練習で味方を蹴ってしまい、すね当てをしていないのに、すね当てをしているかのようにスネが腫れあがっている僕です。まあ、必死にやっても上手くいかない時はあるもので本当に悔しく情けないのだが、こういう時の振る舞いや姿勢で今後の展開が変わっていくのも知っている。頑張らねば、走らねば。
 なんて考えていたら、水泳の池江選手のニュースが飛び込んできて非常にびっくりである。こういう事ってあるのか・・と。神様はなんとも残酷というか厳しいというか。たしかに色んな才能を与え彼女を特別な存在にしたが、奪う時はこんなに持っていくのか?という感じである。東京オリンピックの顔だし、日本のエースだし、世界的な顔なんだけど、18歳の女の子なんだよね・・。それを考えるとテメーのスネなんてなんとも軽いものに思える。その若さで白血病か・・。東京がダメでも次があるよ!なんて多くの人が思うだろうけど、もう「今」しかないんだよね・・。18歳だったらなおさら。やるせない。

感受性の行方

 このブログを書くにあたって「書きたい気持ちになったら書く」というスタンスに変えてからどうにも不定期になっていって、その内書きたい気持ちが徐々になくなっていっていつか辞められるかな、なんて思っていたんだけど、どうもこの気持ちがあったりなかったり、上がったり下がったりと不安定ではあるがゼロになることはない、という感じなので困っている笑。前にも書いたけど映画を見たり、本が読みたくなったりするバイオリズムの波があって、そのリズムで生活が変わることがあるんだけど、それと同じことのようだ。
 今僕の心に響いているのはこの動画で、見ているとどうにも涙が流れてきそうで、必死に我慢している。社会人だし、いい大人だし、さすがに感情の向こう側に落ちることはないけど、何もかも忘れて落ちてみたいな、なんて思ったりする。

何がって言われると良く分からないんだけどね。どっちの熱心なファンでもないし、歌詞がいいというわけでもないし、あんな大勢の人の心を動かしていると思うとか、ただ単純にカッコイイな、と。

インフル

 二年連続でインフルにかかってしまった。ランニングを始めていい感じに体力が戻ってきた頃だったのに、いきなりの発熱・・。一気に熱があがったからこれは!と思ったら案の定。しっかりA型を宣告されました。こういうことって結構あるんだよね。体をいじめよう、というサイクルに入るその時に風邪をひいたり、体調を崩したり。体はいずれ治るのだがもちろん、心の方も再起動させないといけなくて、こっちがかなり大変。まあ、また頑張りますか。
 今回は診断されたその瞬間にある紙を渡された。そこには、自分の症状に当てはまる「社会復帰していい日」が書いてあった。熱が下がったから丸三日おいて、それから、というのが基準みたいなんだけど、自分の症状が治まったら外出をする人がたくさんいて、それが感染の拡大になるのだそうだ。確かにそうだし、出ちゃう方の気持ちもわかるんだけど、これだけ拡大感染することを防げないってことがそもそもの問題なのかなあ、なんて思ったりする。映画で見るパンデミック→ゾンビの世界もあながち夢話でもないのか、と。 

ノブレス・オブリージュ

 向こうには「ノブレス・オブリージュ」という言葉がって、「高貴さは(義務を)強制する」という意味である。財産、権力、社会的地位を持っているものは責任がある、ということで要は金持ちは世の中のために働け・動けよ、ということなんだよね。貧乏人を助けたり、戦争になったら我先に出向いたり、とか時代によって色々と違う。たしかイギリスの王子(ダイアナの子供)は自分からアフガニスタン行っているし、去年なくなったマケインは自分が戦争で捕虜になって障害を負ったのに、ちゃんと息子を戦争に行かせているんだよね。一家の名誉を守るというか、自分の高潔さや品格を示すのにそういう自己犠牲が必要なんだよね。
 ゾゾの社長がお金をバラまいた例の事件で、色んな世代から色んな意見が出てちょっと面白かった。「下品」とか「面白い」とか、人によってかなりの温度差があったけど、一番面白かったのは「世代によって価値観が決まるわけではない」というところ。若い人の間で案外批判もあったようで、やはり個人差があるな、と。Twitterをやっている若い人たちは飛びついて、良く理解できない年配の人は嫌な顔をする、という反応にあるのかなと思ったらそうでもなかった。僕はこれも一種のノブレス・オブリージュかなあ、と思ったけど、気品があるようには思えないしなあ、と思ってしまった。お金で遊ぶのはどうも・・、と割と古風な考え方をしている自分に気づいた。

やさしさ

 この前の第二形態紛失事件で先生が泣くのを見て、ちょっと安心したところもある。先生がいつの間に自分以外の誰か(何か)の気持ちを想像できるようになっていたことに、である。僕はこの部分がとても大切だと思っていて、この「人の気持ちを想像できるかどうか」が人間としてのなんたるかを分けると思っているんだよね。簡単にいうと「想像力」とか、「優しさ」と表現できるのかも知れない。何度か書いたけど優しさはもって生まれるものではなく、後から獲得していくもの。自分が痛い目にあったときはもちろん、誰かが転んだのを見たときに、「かわいそうだな、痛そうだな」と思うことで、人は優しさを覚えていく。先生もここまで来たか、と。まあ、この先本人の中でどんな変化があり、今回の経験が何に繋がるか分からないけど時々こういう、成長を確認できる場面があるといいな、と思ったりする。

夜ラン

最近また夜ランニングを再開している。昨日で三日連続で5キロを走って、今日が休息日である。休息日だから久しぶりに書いている訳である(笑)。今もかなり気まぐれな頻度になっているこのブログですが、このまま少しずつフェードアウトしていこうかと・・笑。

こんな真冬に走るのも久しぶりで、こんなに寒いのか!と一瞬思ったけど、年末に体験した八ヶ岳のマイナス5-6度に比べれば命の危険は感じられず、変な話余裕である。それどころか、体が温まってくれば空気に透明感、軽さみたいなものが感じられて気持ちがよかったりする。これが夏だったら空気が重くて重くて仕方がないから冬のランニングはおすすめかもしれない。気持ち的には億劫な日ももちろんあるけど、5-6年後の体を今作っていると思えば何となく頑張れるものである。

あけましておめでとうございます

シン・ゴジラを観てから先生の中で空前のゴジラブームが来ている。偶然日比谷のゴジラ像を見てしまったこともあり、本人の中で非常に盛り上がっている様子。ソフビも購入、昨日は蒲田で行われているゴジラ店展を見てきた。こじんまりとはしていたが、なかなか迫力のあるものも多く、子供的にも僕的にも楽しかった。展示物を見ながら独り言をずっと繰り返しているあっち系な人もいて、ゴジラのファンは濃いなあ、やはり。いくら展示が面白くても、ああいう展示会の一番の盛り上がりは出口のショップであることは間違いない。もちろん、こっちも人が大勢集まり、グッズを吟味していた。この展示会で面白かったのは大人と子供がみんなまざって同じものを見ている所。大人が「これはあの85年の映画のあの場面で右から映っているアレかなあ」なんて言っている所を、隣の子供が「ゴジラカッコいい!」叫んでいるところが他とちがうところかな。
帰りには見事に箱根駅伝の渋滞にはまり、隣を選手たちが走りすぎていく姿も見れて楽しかったかな。

あっという間に

今年出来ていなかった墓参りを30日に慣行、そのまま八ヶ岳まで足を延ばし一泊、今帰ってきた所である。休みに入ってからもスピード感は変わらないもので、もう少しで新しい一年が始まる。この一年はどんな一年だったのかの反省、来年へんの抱負も立てたい所だが、すべてが一つの流れのに混ざっており、しかも同時進行だから区切りをつけるのが難しい。もしかしたら、区切りというものを感じにくい年代に入っているのじゃないか、と思う。次から次へと来るものを何とか回している間に過ぎていく僕のこの「現在」こそ多くの先輩方がいう「あっという間」の時間なんじゃないかと。

おそらく来年も今年と同じように、場合によってはより大変な時間が流れることになるかもしれないけど、皆それぞれの場で、それぞれの時間で、自分にできる事をやっていただければと思います。ここに来て時間は平等に流れているものではなく、誰かがどこかで回しているものなんじゃないか?という気がしている。そして時々、本当に時々だけどその順番が自分に回ってくることがあるんじゃないか、と思うんだよね。気づかずに。朝は自分でやってこない。誰かが送ってくれるもので、時々は自分も手伝う必要があるのだ。多分。多分ね。皆良いお年を!