猟奇的

 この前にここで書いた「北九州連続監禁殺人事件」を知ってから色々と調べていたら、92年に起きた「市川一家4人殺人事件」という事件にたどり着いた。日本の犯罪史上の中でもかなりの凄惨な事件なのにあまり有名ではなく、なんでだろうと気なって色々と読んでいたら、今日になって9人を殺害し解体した事件のニュース流れてきた。こういう「猟奇的」と呼べる事件ってちょくちょく起きているよなあ、と、そして必ず異常な事件を起こした犯人がどんな奴なのかがこういう事件のポイントとされるよね。かならず犯罪心理学の先生みたいな人が出てきて、犯人の異常性を解いたり、なんでそういう事に行きついたのかを推測したりする。
 僕が面白いと思うのはこういう事件が起きた時の世の中の反応だよね。「猟奇的」という言葉には暗い魅力があって、誰もが「なんでそういうことをしたのか、なんでそういうことが出来るのか・・」、「狂っている、気持ち悪い、怖い」と目を覆いながらも指の隙間から覗いてしまうような、そんな感じだよね。そういう僕もこういう事件をしるとついつい調べてしまったり、本を読んだりする。何が面白いんだ?って聞かれると少し困るけど、最近思うのは
「人が人の道を外れる瞬間や理由」ってどいうものなんだ?という好奇心なのかなあってこと。もちろん、心理や犯罪学的な崇高なものではなく、ゲスな好奇心なんだけどね。ああいうことをしてしまう人の心のなかというか、精神的なアあり方がもう普通じゃないんだよね。その普通じゃない感じが気になるんだよね・・。

知ってたけどね・・。

 俳優のケビン・スペイシーがゲイであることを公表した。「アメリカン・ビューティー」でミーナ・スヴァーリに熱を上げている姿が超ハマっていたのに、ビックリである。調べてみると公然の事実だったみたいだけど、本人は絶対に認めなかったらしいね。でも、このニュースは
「ケビン・スペイシーがゲイだった」
ではなく、
「過去のセクハラで告発されてゲイであることを告白」が正しいのであり、「過去にやらかした」ことが重要なんだよね。こっちのニュースでみると重要な部分が切り取られていて、不思議である。その答えが「30年前のことだから覚えていないけど、ごめん」と返していてもっと面白いんだけどね。未成年に手を出しちゃう所が問題だろうなあ、きっと。
 
 ワインスタインの事件以降、色んな蓋があいたっぽいね。今まで黙っていた人たちが次から次へと声を上げている。昔は女優だったけど、今では無名な人が多いからイチイチ日本ではニュースにならないけど、かなり激震らしいんだよね。それも
「ワインスタインがあの女優もやってた、あっちもやってた。どうしょうもない奴だな」
というところではなく、
「皆知っていたのに誰も何も言わなかった」
事の方が問題視されている。すでに知っていたのに何も言わなかったことに対し正式に謝罪のコメントを出している人もいて、「セックス中毒のおっさんのやったこと」のレベルを超えて、当時黙認していた人たちの責任を問うようなところまで飛び火が起きている。最低の人間だったことは百も承知だけど、確実に世話になっている人がたくさんいるんだよね・・。こういう時辛いな、ショービズ。 

JFKのアレ

 JFK暗殺事件の非公開機密文書の公開のニュース。ギリになって「公開したら色々と不都合なものがある」とかで、いくつかのファイルが非公開になったけでどそれでもたくさんのドキュメントが公開されている。こうなると公開されなかった分にはどんな情報があったんだ?と気になる所だけど、勘違いしてはいけないのは「真犯人はコイツ」と書いているわけではないんだよね。色んな人が当時の捜査資料を調べることで新しい事実が出る可能性はあるけど、僕らが知っている情報や出来事以外のものはなさそうなんだよね。報道されなかった事はあると思うけどね。できれば政府による陰謀とか、そういう映画的な展開であってほしいけどそうではないらしい。こういう時はどうしても隠蔽された真実が!とか、当時はタブーとされていたものが!と期待してしまうけど、法律とはいえ政府主導なんだから都合の悪い部分は隠すわなあ。トランプがこういう事に興味がなさそうで、普通に公開するかも、と思った人が多かったみたいだけどそう簡単なことでもないらしい。

死を理解

 葬儀にはもちろん先生も連れて行ったんだけど、ちょっとだけ心配であった。見慣れないところが怖いという、ちょっとしたビビりなところがあるので泣いちゃったり、静かにしないといけない所で落ち着きがなくなったりしたらどうしょう、と思っていたけど案外問題なく過ごせた。まあ、親戚たちがチヤホヤしてくれるというのが大きいけど、たぶんまだ理解していないんだよね。棺の中に花を入れる時なんか、楽しんでどんどん入れていたもんね笑。
 帰ってから相変わらず遊んでいる先生を見ながら、子供は気楽でいいなあ、羨ましいなんて考えていたら先生がふと「おじちゃん壊れちゃったの?」と尋ねてきた。あ、理解までは行っていないけど、こいつはこいつなりに感じる所があったのか、と気づいた。子供だからと言って、馬鹿にできない。

法事

 週末、亡くなった伯父さんの葬儀があった。台風が迫る当日、バケツをひっくり返したかのような雨のなか、義理の両親も乗せて府中まで運転。行きも帰りも雨の勢いは弱まることもなかったので、命がけの運転だった。笑
 今まで色んな葬式や通夜や告別式に出席したことはあったけど、身内として最初から最後までいたのは今回が初めて。その家族の中でも僕は外様なんだけど、とりあえず出来ることはやってきたかな。
 人はあっけなく死ぬというが、そんなことは全くないことを感じた。亡くなる本人も、残された人たちも本当に大変である。心の問題だけでなく、手続きや葬儀のことや今後の生活のことや、僕が知らないことも次から次へと襲ってくるんだよね、きっと。それらをこなしているうちにある程度気がまぎれるんだろうけど、それらがすべて終わった瞬間はどんな気持ちになるのだろうか・・。その頃には少しは亡くなった人の不在を受け入れられるのだろうか。死ぬのは大変だ。

公式戦

 土曜日は選手権予選に参加。僕にとって実に2月5日ぶりの公式戦であった。残りの日程が土曜日ばかりということもあって、今年最初で最後の公式戦である。なんともまあ切ない状態だけど、怪我をしたころの心のありように比べれば、天国である。
 蹴れるようになってからちょっとずつ負荷をあげては蹴ってきたけど、どれも遊びとかで、毎回毎回「求めているのはこれじゃないんだよね・・」と、まだ遠くにある「公式戦」に焦がれてきた。今回の試合である程度心は救われたけど、この気持ちっていつ落ち着くのだろう。満足できる日は来るのか?なんだか今、それが怖い。いよいよ本当に自分の体が競技に耐えられなくなる日が来たら、僕はそれを認められるだろうか・・。

ドローン

 最近、なんとなくドローンやってみたいなあ、と思っている。この前コストコで割と本格的なのがあって、説明とかを読んでいたらすごく面白そうに思えたんだよね。値段は10万ぐらいで、はじめるにはかなり高い一段だけど、やるならおもちゃ的なものではなく本格的なものをやってみたいなと思う。この気持ち、何かに似ているな?と思ったら、子供の頃にラジコンに憧れたあの気持ちだよね。
 ただ、どこでやるの?の問題がある。大きな公園だと「ドローン禁止」の張り紙がちゃんとあったりする。家の近くの住宅街の中の公園にはそんな張り紙はないが、禁止理由はどこも同じで「他の利用者も迷惑になるから」だから、おそらく禁止だろう。もはや「公園」と名前がつく場所は禁止となると海辺?田舎まで遠出しないといけないのかな。なんか、ドローンが今後の社会の在り方を変える!みたいな話が一時期多く聞かれたけど、この「みんな興味あるけど、使える場所が限られている」というこの状態がなんかおかしい。ダメと言われながらこっそり遊ぶのは楽しそうだけど。

何が正しいのか

 朝のニュースで、「北朝鮮はあと一年持たない」という内容のものがった。労働党の元幹部で脱北者の人がそのように発言したのである。かなりの高官だったみたいだからその発言には説得力があるってことみたいだけど、正直このセリフ、もうずっと前から聞いているよね。同じように「中国はもすぐ破綻する」というのもあって、耳にするときにはある程度の説得力があるように思うのだが、ずっと状態は変わらないのである。有識者、というのかな?その道のスペシャリストが言っているのだから、ある程度の根拠があるんだろうけど、そうならないのは何故なのだろうか。
 そもそも見立てが間違っているのか、それてもそういう風に発言するように求められているのか、色んな可能性があるんだろうけど、中国はもうすぐ破綻するなんて、もう4-5年も前から言われていて何も起きていないわけだから、もう破綻はしないのかな、ついつい思ってしまう。その道のプロでも分からないんだから、もう誰も知らないってことだよね。国際情勢、景気、政治。色んなプロがいてその人たちが皆自分の意見を述べているわけだけど、その中から正解を拾うのは難しい。どの情報を信じるのかまでもが自己責任なんだよね、今・・。
 

壁の向こう側

 ここでも何回か書いている、日曜日にやっている「ザ・ノンフィクション」。14:00という、一日のもっとも見過ごされそうな時間にフジTVでやっているドキュメンタリー番組なんだけど、地下アイドルから歳をとったオカマまで取り扱う内容はさまざま。毎回ビデオをセットするような、気合を入れてまで見るべきものではなく、TVを付けたら偶然やっていた!が最もな幸せな視聴方法だと思う。
 で、昨日渋滞にハマっていたら「ザ・ノンフィクション」の時間になった。お、やった!今日はどんな内容かな。ダメになったホスト?親から見放された風俗嬢?と期待していたら、なんと「北九州連続監禁殺人事件」の主犯夫婦の息子のインタビューだったんだよね・・。たまあになんだけど、テーマで滅茶苦茶に攻める時があるんだよね。今この時代にそこ行くか?みたいな。障害の話だったり、引きこもりの話だったりね。ただ今回は、誰もが気になるけど人権や個人情報という壁の向こう側にあって覗き見ることの出来ないタブー「犯罪者の家族」だったんだよね。あちこちで動画で上がっているから是非見てほしい。日本の犯罪史に残る殺人者を両親に持つ男がどういう声をしているのか、そして何を語るのか。
 こういう時って、その人が「何を見た」ってところがすごく気になる訳で、要は
「自分の親が人を殺してそれをバラシてミキサーにかけて捨てたのを見てた?」って聞きたいんだけど、直接そういう風にいうわけにはいかない。インタビュアーも外堀を埋めながら聞くんだけど、不思議なもので途中で「やっぱり聞きたくない。知りたくないかな・・」とこっちも思ったりする。なぜならこの人は加害者の家族ではあるんだけど、本人は加害者ではないんだよね・・。この「こいつは悪くないんだよね。悪くはないんだけど・・、このモヤモヤ感んはなに?」って気分になってしまう自分がいた。気になる人は動画を検索してみて。ちょっとショッキングだけど。

ブドウ

 義理の母の方で不幸が。縁があって家族と呼ばれるようになってからの時間も短く、その中でも会った回数は両手で数えらえるぐらいなんだけど、心の中にちょっとした寂しさを感じてる。
 うちの先生が2歳になりたてぐらいの時にご自宅にお邪魔をさせてもらった時かな、ブドウを出してくれたんだよね。当時はまだうちの先生に甘いものはあまり与えていなくて、その時はもちろんブドウも食べたことがなかったんだけど、せっかく頂いたものだからと食べさせたら、これがいたく気に入ってしまった。世の中にこんな美味しいものがあったのか!とパクパクと食べ続け、気づいたら目の前に皮の山が出来ていた。それからはことあるごとブドウを食べたがるし、スーパーで見ても買いたがるし、食卓に出てくると途端に笑顔になる。
 今年の初めになくなった仕事上で付き合いのあった社長もそうだし、今回のおじさんもそうだし、人との関係の濃さは時間の長さで測るものではないのかな、とこの歳になって思う。じゃあ何で測るのが正しいのか、正直わからないんだけど、してもらった事や食べさせてくれた飯は忘れないもんだな、と単純に感じている。少なくとも先生がブドウを食べる度に顔を思い出すことだろう。