命の価値

 ここ来て、捕虜交換という言葉が良く聞かれる。現時点ではゴトウ氏とパイロットとテロリストの命が天秤にかけられ、どっちが先に救われるべきか、どれとどれの交換が妥当なのか。まるでカードゲームの様に、どっちもタイミングを伺いながら、自分に有利なポイントを探している。真実を伝えるために危険な地域に入ったジャーナリスト、国の命令のもと戦い捕まった軍人、60人以上の命を奪った現場に参加したテロリスト。皆バラバラでありながらも、彼らの命の価値は比較できるものの様だ。
 命の価値は平等だとか、人の命が何よりも重い、なんて価値観がここに来てグラグラになっている。すでに200億の価値もないことが証明されているし、迷惑だから自決してくれ、と声を上げている人もいるとか・・。ゴトウ氏の名前が書かれたプラカードがあっても、湯川氏のものはない。現実は厳しい。

横になったら、いきなり咳が止まらなくなった。それも軽い咳ではなく、口から肺が飛び出すんじゃないか?と思うほどの咳であった。喉の奥の一部分が筆の先で撫でられているかのように痒くて痒くて、その痒さが咳を誘発する。喉を暖めても部屋を加湿しても体の向きを変えても全然良くならず、気づけば太陽が昇り6時ぐらいになっていた。このままでは徹夜で仕事かあ、と考え出したところから記憶がなく、おそらく気を失うかのように寝てしまったようだ。これではいかん、ということで出勤前に病院に直行。薬をもらったがこれで咳が治まらなかったら、内科で胸をみてもらえとのアドバイス?を頂いた・・。
 咳ってこっちのタイミング関係なくくるから困るよね。いきなり喉のかゆみがMAXになって、まるで何かを排除するかのように咳が出てしまう。呼吸もままならず、かなりの体力を消耗する・・。あー、困った。

寒い

 なにやら明日は雪が降るらしい。そう言われるだけでなんとなく寒くなって来ている気がするけど、雪の場合はくるくる詐欺に終わることが多い気もする。千葉はなんだかんだで南にあるからか、予報されても降らないことが多い気がするんだよね。実際に降られたらこれ以上ない迷惑でもあるので、出来ることならシレーっと何ごともなかったかのように普通に晴れて欲しいけど、どうなるのだろ。
 おとといぐらいにあった、雪のためにニューヨークが機能停止に陥ったニュースもちょっと面白かったよね。いつもは人でごった返しているあの有名な交差点が無人で、吹き荒れる風と舞い上がる雪を通して、世界一の都市を機能停止させている嵐の大変さんを報道しているつもりでいたんだろうけど、どんなに真剣に話をされても、全てが「なんとなく楽しそう・・」に思えて仕方なかった。いつもの風景を非日常に変える、それが雪の力か。

MOVIEラボ

 映画監督のイワイシュンジがNHK教育に出ていてビックリ。「MOVIEラボ」という映画について語る番組みたいだけど、こんな番組があったのか、知らなかったので過去回も見なきゃ。
 イワイシュンジの作品はどれも好きで、繰り返し見ているものが多いんだけど、世の中での評価はちょっと割れている人でもあるよね。少女漫画チックだとか、軽いとか、おしゃれ過ぎるとか、悪い評価もある。まあ、分からないでもないけど、誰もが心の中に少女がいることを思うと(笑)しょうがないじゃんと思ったりもする。良く考えたらいい歳のおっさんが乙女心や恋心を描いているわけだから、なんだか気持ち悪くて変な感じもするけど、世の中の創作物のほとんどはそういったものなんじゃないか?と思ったりする。子供時代の思いも思春期の苦しさも、この世界の美しさを映画にしてきたのっておっさんだからねえ。笑。おっさんの目を通した世界を僕らは見ているのだ、きっと。そりゃちょっと気持ち悪いか。

モザイク

 殺害されたハルナ氏の写真のモザイクのない写真を探した人はたくさんいたんじゃないのかな。速報が流れたときはなかなかなかったのに、今ではあちこちにリンクが貼られていて、簡単に見ることが出来る。テレビやネットなどでモザイク付きの写真が多ければ多いほど、かかってないものが見たくなるから逆効果なんじゃないか?とも思ったりする。
 報道する側としては、残酷な画像を流すわけにはいかないからモザイクをかける判断はあたり前だけど、
「良く見えないものを報道する」
というのも良く考えたら完璧に矛盾している。しかもこの写真は向こうからのメッセージであることを思うと、モザイクありではその真意を汲み取ることは難しい。
 そもそもこの話題って、イスラム国「とみられる」組織に後藤さんと湯川さん「と見られる」邦人が拘束され、で後藤さんの声「と見られる」音声ファイルがネット上にながされ、湯川氏の遺体「と見られる」写真も流れているという、何一つ確定されてない中で進展している。だからこその、この殺害の写真には説得力があるんだよね・・。

自己責任

 殺害された人質の写真のリンクに、「ショッキングな画像、自己責任~」という注意書きであった。「事故責任」って言葉、こういう事件が起きるといつも上がってくる単語である。
 捕まった二人に対し、自己責任論を唱える人が案外多いらしい。たしかにわからないでもない。自分からすすんで危ない場所に入って捕まったわけだから、その通りである。ただ、この「事故責任」という言葉には民意の総意という、ちょっとした気持ち悪い連帯感があるような気がして仕方ない。皆がそう思っているから、とか、皆で言えば怖くないとか、皆と同じだから間違ってはいない、という、いつも起きるアレである。
 12月頃にアメリカが、同じく人質にされていたジャーナリストを救出するため、シールズを出したのに失敗したことがあったよね。あの時は人質も殺されて最悪の結果に終わったけど、今思えばアメリカってハッキリしているよね。交渉せずに問答無用で取り返しに行くその思考?そこに自己責任という考えはないのか?ということも気になる。「国民を取り戻しにいく」という姿勢にはある種の正義と正しさを感じるけど、日本もそれをすれば良いのか?、って言われると「うーん・・」となってしまう・・。国家と国民、国民同士の関係、何が正しいのやら。

練習試合

 本日は練習試合+練習のメニュー。人数も多く、最後には3セット組めたかな。大詰めを迎えつつあるリーグに向けての準備としては正直物足りない感じであるが、悪い中でもやれることはやらねば。残された時間は少ない。

ドラマは日常

 信号待ちをしていたら、一軒家から大学生ぐらいの女性が出てきた。リュックを背負った彼女は寒そうにマフラーで口元を隠しながら、自転車に乗る準備をしている。すぐその後に年配の女性が出てきた。お母さんと思われる年配の女性は薄着で、とても寒そうな様子。娘を見送るためにちょっと外にでた、という恰好である。大学生の彼女はお母さんと挨拶を交わし、小さく手を振ってから自転車を漕ぎ出し横断歩道を渡っていった。これから大学にでも行くのかなあ、なんて思いながらボーっと見ていたけど、気になったのは娘の背中をずっと見送っているお母さんの姿であった。ずっと見ているのである。娘が離れてもなんとか視界の中に入れるために角度を変えたり、ちょっとずつ移動しているのである。お母さん、すごく寒そうだけど大丈夫か?なんてこっちは勝手に思ったんだけど、震えながらもやはり娘への心配のほうが大きいようで、最後まで見送ろうとしていた。母の愛は偉大だなあ、なんて考えていたらふと
「この風景、前にもみたことある」
ということを思い出した。しかも同じ場所で、だいたい同じ時間、同じ親子。その時も娘を見送るお母さんの姿があまりにも印象的で、ちょっと感動的ですらあったんだよね。ただ、あの時の女の子は制服姿だったから、中学生か高校生だったに違いない。おそらく3-4年前のことだと思う。その間の時間、娘が家を出て行くたびに最後まで見送るお母さんの姿を想像した。
 一日一日は日常だからたいした事の用には思えないけど、そういう日常の積み重ねが僕らの日々作っているのかあ、なんて朝から思ってしまった。

解説

 ニュース・ステーションのスポーツ解説陣、サッカーはゴン中山、テニスは松岡シュウゾウは最強じゃないか?と見ながら思った。シュウゾウの解説は味が濃いし慣れなれしいし(笑)大げさだけど、実は論理的で分かりやすく、さらに対戦相手のいいプレイにも賛辞を送るからすごく好感が持てるんだよね。ゴン中山の方は選手のインタビューが通常のものではなく、「仲間から話を聞く」フランクさが伺えてこれも見ていて楽しい。おそらく先輩の頼みを断れずに話しを受ける選手が多いんじゃないかと思われる。そりゃゴン中山に話を聞かせてと言われれば断れる後輩はそういないに違いない笑。
 二人に共通するのはその「熱さ」。共通はしているが決して同じでもない気がしている。根性論に傾きがちなゴンに対し、シュウゾウは割りと論理的である。まあ、これもゴンとの対比の中でやっと気づけるけど笑。とはいえ、大きな声や派手なジェスチャーは同じで、今後、互いの存在を意識しすぎてエスカレートするんじゃないか?と楽しみである。昨日だっけ?競演していたよね?別物でもやはり熱さは二倍であった・・。二人ともオーストラリアにいるのかあ。きっと現地暑いんだろうな。

サッカーを観戦するのも罪

 「イラク対ヨルダンを観戦していた少年13名が、イスラム過激派「ISIS」によって殺害された」というニュースを見てビックリ。最初は何かの見間違いかなと、二度読んでみたけどやはり本当のことらしい。イラクのモスルという都市でアジアカップを見ていた少年たち13人を射殺した、とのことなんだよね。イスラム過激派はスポーツ観戦を禁止しているのがその理由のようだけど、サッカーを見ただけで射殺、というのもすごいことである。
 こういう事件を考えるときはこっちの尺度ではなく、事件が起きている現地での価値観で考えることが必要であることはわかっているけど、どの文化や宗教に子供は殺していいという価値観があるんだろうか。本当の意味での怖さ、がある。宗教の教えが命よりも重い、ということなのかなあ。戒律だって解釈によって変わるものだし、なんともやるせない、理解の出来ないニュースである。