この違い

 ゴシップってすごいな、と再確認している今年。もう1月に何が起きたのかもはや思い出せないぐらいである。本当に話題の事欠かない今年、「民衆」の怖さも目立っている。謝る人を再度断罪し、落ちた人をたたき、つぶれる人の上を歩き回る。右へ左へ、報道のされ方が変わる度にそれに合わせて右へ左へと進路を変え、昨日白かったものが今日黒くなれば、昨日までの白さを忘れ黒さを叩く。この変わり身の早さこそ、一番の怖いところであり、気持ち悪く感じるところである。
 僕が子供の頃も、こういうゴシップって確かにあって、誰が誰とくっついたとか、誰が誰をやっちゃった(下品)とか、今と同じような民衆の下衆な勘繰りってあったけど、今ほどの気持ち悪さはなかった。この気持ち悪さの正体はなんだろう、とずっと考えたんだけど、インターネットの登場が人々の意見を表示させ、まとめやすくなっちゃったのかなあ、なんて思う。まとまっちゃうものだから、その意見の集合体が大きくなっちゃって、まるでその声に価値があるかのような錯覚が生まれてしまう。俺の意見は一人では無意味で力がないけど、こんなにたくさんの人が同じことを考えているんだから、正しいに違いない、謝れ!ってなるんだろうなあ。この「なんとなくこっち側が正義」という感じがこの気持ち悪さの正体なんじゃないかと思う。
 ワイドショーというのは、誰もが「ワイドショーってくだらないよね~」と言いながら、有名人の私生活や手の届かない世界、他人の不幸を覗き見る「あくまでも娯楽」的なものだったはずだけど、いつからか裁判所みたいになっているよね。

違った角度から

少し前に元巨人のマキハラがラジオに出ていて、完全試合のことなど、現役時代についてのインタビューを受けていた。当時はパ・リーグにおいて西部が黄金時代を迎えていて、その中心はもちろんキヨハラだった。キヨハラについてどの様に語るのかな、と思ったらなんの気を使うでもなく、当時の西部との対戦や、どういう風にキヨハラを抑えたのかをたんたんと語っていた。専門的な話を交え、当たり前のように野球選手としてのキヨハラについて語っていたのでとても面白った。当時のマキハラ投手はデータから割り出した抑え方を実施し、実際打たれていない。配球はインハイに早い球を投げたあとに、アウトに落ちる球を投げれば打ち損じ、もしくはゴロが取れる、とのことだった。聞こえは簡単だが、技術的に誰にでも投げれるわけでない、という話もしていてとても興味深かった。キヨハラのゴシップ以外の、打者としての評価と話が聞けてとても面白かった。
キヨハラを追いかけるバイクの数、すごかった。予備知識なしで見たものだから、なんで暴走族が空撮されているんだ?とビックリした。あれ、法的に何か問題あるんじゃないか?キヨハラにとってつらい一か月半だったけど、これからもっともっと辛いんだろうなあ・・。少なくとも野球選手としての昔話を語ったマキハラを通して、何もかもがダメになったわけじゃないんだな、と一安心だ。

完全なる

2年間の監禁のニュースをしった時、不謹慎ながら竹中直人と小島聖の「完全なり飼育」という映画を思い出してしまった。男が少女を誘拐して自分好みの女性にしようとするんだけど、あれは確か昔起こったナントカ女子高生誘拐事件を元に作られているはず。似たよう事件って起きるものだ。映画の中では一瞬分かり合える(?)ところまで行くのだが、やっぱりあれは映画で、実際の世界ではそんなことは起きなそうだ。ストックホルム症候群的なこともあるんだろうなあ、なんて知ったかぶりで思ったりしたんだけど、人の心はそう簡単なものでもないってことか。
それにしてもあの犯人、少女を監禁しながら大学にちゃんと通って引っ越しもして卒業、就職までしている。ある意味すごいな。どうやったんだと、不思議である。おそらく明日ぐらいから色んな調べが進んで、事件の詳細が明らかになっていくだろうけど、監禁しつつの引っ越しがどう行われたのかだけでも、教えて欲しい。

監禁の舞台であったと言われる稲毛の3階建てマンション、毎日のように前を通るんだよね・・。どうなってるんだ、世のか中。