違和感

昨日のブログを書きながら、衣装ケースに入れられている子どもを想像してみた。どうにもやるせない気持ちになった。こういう時はなるべく両サイドから出来事をみるべきで、もしかしたら親側の都合というか、苦悩があるのかもしれない、とは思ったが、やはり想像は難しい。変な話、感情をコントロールできずに殴って殺したとか、刺したとか、投げたとか、そっちの方がまだ理解が出来る気がするんだよね。一瞬自分自身を失うことは誰にでも起こりえることだから、なんとか納得がいくんだけど「衣装ケースに入れる」という行為はなんていうか、人間が人間にできることだとは思えないんだよね・・。怖いし、得体の知れない気持ち悪さがあるんだよね・・。

昨日書いたように、どんな変なことでも誰かに起こったってことは、自分人身にも起きる可能性がある、とは思うんだけど、やっぱりこればかりは気持ち悪いなあ。

しつけと体罰の差

しつけと体罰に差があるなんて、答えがある問題だろうか。僕は親からも先生からもボコボコに叩かれたことがあり、その時の経験があるからか、体罰を悪と捉えられない何かが自分の中にある。ボコボコと叩かれているときに、相手の気持ちを感じることができるから、である。暴力とは違う、「気持ち」とでも表現できる何かを感んじていたんだよね、子供でも。子供だからそんなことはすぐに忘れて、また(だから)叩かれるんだけどね(笑)。良く「愛情があれば体罰ではない」という価値観があるみたいだけど、僕はそれも信じていない。怒りや恐怖が必要な場合もあると思うし、「大人も完全ではない」ってことを子供にわからせる必要があるとも思う。

子供を衣装ケースに入れるその発想がまずすごいよね。しかも二人。想像するだけで狂気じみた何映像が浮かんでくる。こいつは裁判もなしにさっさと死刑にしちゃえばいいと思うんだけど、ここでこいつと僕らが全く違う生き物であると思ってはいけないと思うんだよね。そりゃあアイツと僕の間には飛び越えられない深い崖があるんだけど、追い詰められたら僕だってそいつの領域に落ちる可能性はある。そりゃ限りなくゼロに近いパーセンテージではあるが、感情のある不完全な生物である限り、愛するものを傷つける可能性はゼロでない。その認識の差こそ、それを自覚・頭の中に入れていれば子供を殺すことはないと思うのだ。その差がラインのこっちと向こう側を分けているんだよね、きっと。愛情とか理性とか、そいうものもあるんだろうけど、自分だって完璧でない自覚こそ、一番大事なのかも。