映像のインパクト

シリアでの化学兵器使用のニュース。サリンか毒ガスかの影響でぐったりしている子供に水をかけている様子、そしてそこから伝わってくる緊迫感や絶望感に大きなショックを受けたのは僕だけじゃないはず。映像には部分的にモザイクはかかってはいたが、僕にはそれがないかのごとく、鮮明に見えている気がした。

9.11の攻撃後、「攻撃の成功を喜ぶ子供の様子」という映像が流されたことがあった。後からあれは地元のお祭りで遊んでいる子供の映像であることがわかって、偶然なのか故意的な情報操作なのかはわからなかったが、情報は怖いなと感じたのを覚えている。なので、今回もこの映像も一瞬「本当の映像か?」と身構えたけど、あまりのインパクトに成すすべもなく心に入られてしまった。

報道の倫理規定みたいなものがきっとあって、この映像はOKでこれはダメ、というラインがきっとあるのだろう。震災の時の映像だって、国内と国外のではまったく違っていたのがいい例。でも、食事の時間のお茶の間で流せる「普通のニュース」というくくりの中で、あの映像はOKだったのか?とちょっと不思議に思った。確かに流血や欠損など、目に見えるグロテスクなものはなかったけど、同じぐらいにインパクトの強いものだったと思う。北朝鮮へのメッセージだったのか、それとも戦争への布石だったのか、顛末の行く末も気になるけどあの映像の評価のされ方も気になる・・。

開幕

長いシーズンが終わったかと思ったら、もう開幕。怪我をした当初は「開幕までには!」と心の中で考えを巡らせていたがそう甘くもなく、目に見える回復はない・・。痛みの質は深部から表面へと変わってはいるけど、まだまだだなあ、と。そんな中、2部が開幕を迎えた。

対戦相手は昨シーズンまで1部を戦っていたチーム。格上を相手にどこまでやれるかが問われる舞台。2失点で出鼻をくじかれるも、なんとか持ち直してゲームを作る。得点を記録するも、一度も追いつくことなく2-5の敗戦、完敗である。とはいえ、格上のチームを相手に「くやしさ」を持って帰れることにはある種の成長を感じた。

カテゴリーが一つ上がり、本当に気が抜けない戦いばかりになりそうだ。一つのミスで試合を失う、そんな緊張感。これだよね、これ、欲しかったものは。このシーズンが楽しみだ。

復権


3月の終わりぐらいに発売されたNIKE AIR VAPORMAX。NIKE AIR MAXシリーズの最新作である。AIRMAXと言えば95に代表されるNIKEの代表的なスニーカー。もちろん僕も好きで持っているんだけど、この新しいVAPORもすごく楽しみにしていた。
AIRMAXシリーズってたくさん出ているんだけど、その代表格は相も変わらず95なんだよね。もちろん、それ以降にも97とか、360とかいろいろヒットはたくさんあるんだけど、一番売れるのは95の復刻であるちょとした悲しさがある。一番の売りであった、「AIR」という技術も今では機能的には全然先を行かれている。ADIDASのBOOSTソール、ASICSのGEL、NIKE自身が開発したLUNARLONもAIRよりずっとクッション性がありさらに軽い。ソールの中に空気を入れてさらに見れるようにした「AIR」という発明は今では技術としてはでなく、ファッション性としての意味合いの方が高いんだよね。

そして、ここにきてのこのVAPORMAX。注目すべき点はこのソールだよね。とにかく柔軟性がある。柔軟性があるのに形状を保てる所が多分技術的すごいのだと思う。ちょっと固いプチプチを足裏につけている感じ。指でつまむと形が変わるから、ついつい触ってしまう。でも穴が空きそうとか、そういうのが心配にならないぐらいに丈夫。もちろん、当たり前のように軽い。これはもう、新しい革命かもしれない。ここに来てついにNIKEが本気で攻めてきている!今度はきっと、今までのモデルにこのソールつけて発売していくことだろう。これは楽しみだ・・。

victorinox

何年ぶりだろう、本当に久しぶりにvictorinoxを新調した。ここでも何度か書いているけど、中2ぐらいの時に父にvictorinoxのナイフをもらった時から、ずっと愛用している。父親がアウトドア好きで、アウトドアではナイフは必須である。今ので三代目かな。もらった当初は男として認められた気がして嬉しかったが、それ以降は便利であることからずっと使ってきた。写真のように2代目にそろそろ限界が訪れたことから、同じモデルを再度購入した。
いつも疑問に思っていたのは、持ち歩くことは法的にどうなんだ?ということである。店員に聞いてみたところ、銃刀法違反ではない。軽犯罪法にひっかかりはするが、取り締まりはないというのが現状のようだ。とはいえ、グレーな状態であることが確実なんだよね。
最近では防災の観点からこういった便利ナイフを推奨するところもあるみたいで、状況はより混沌としているようだ。なんとかいい落としどころがないものだろうか、と思うんだけどこれが俗にいう実生活と法律のかい離かな?

it’s a lonely road, but i’m not alone

 宇多田ヒカルの新譜を良く聞いているんだけど、不思議と先生がよく反応する。まだまだ全然歌詞を捉えているわけじゃないんだけど、似たような音を出して歌おうとするんだよね。新譜だけではなく、古いアルバムの曲にも反応することもあるが、決まって宇多田ヒカルの曲が多い。ノリのいい洋楽で勝手に体が動く、みたいな子供ならではの反応も昔はあってたけど、歌おうとするのは珍しい。なんだろうなあ、と思っていたんだけど宇多田ヒカルの声が特別なんじゃないか?と思ったりする。これは作曲の才能や作詞のセンスがある、とは別に「声そのものに」彼女の人気の秘密があるんじゃないか?と感じるんだよね。理論や理屈じゃない、本能レベルで誰もが好きになるような。人間の聴力には心地よく聞こえる音域ってのがある話はきくんだけど、それなんだろうか・・・。

walking dead

 遅ればせながら大人気アメリカTVドラマ「ウォーキング・デッド」を鑑賞している。噂通りの面白さで、早速ハマってしまっている。終末世界、ゾンビ、グロ映像、割りと真面目な生と死の考察など、そりゃあハマるか、と十分に理解できる内容である。ゾンビという便利な存在を通して「生と死はなんであるか」、「生きるというのはどういうものか」と考えさせられる内容になっている。
 どのシリーズにも、特にそのシリーズが長くなると、話の種類にバラエティを持たせていく。シリアスな話、お笑いの話、本編のストーリーを進める話をいいバランスで混ぜるんだけど、このシリーズは特にそこが上手くできている。登場人物の過去を説明しながらストーリーを進行するところもいい。TVドラマのシリーズはたくさんあるし、その中では際立つために「LOST」のように時間軸をこれでもか!とねじったりするドラマもあるけど、そういうことをすることなく、割と王道なんだよね。噂では20年は続ける、みたいな話もあるけど是非そうして欲しい。

引き継ぐこと

 少し前に亡くなった親戚の家を訪れた。一度しか会ったことがなく、義理の両親のどっちの親戚だったのか良く把握していなぐらいの関係だったが、それでも家族である。自分から行きたいとは思わないが、そう悪いものもない、ってやつだね。
 その家は取り壊される予定になっていて、あちこちに荷物が散乱していた。転居先に必要なものだけを運んだ後の状態で、残っているものはすべて処分する事になっていた。1階のリビングには大量の書籍が乱雑に並べられている。亡くなった伯父さんの本で、次に日にはブックオフが取りに来ることになっていた。値段なんてつかないんだけど、捨てるぐらいだったら・・、ということだったらしい。どうせ持っていかれるんだから、欲しいのがあった持って行ってね~と言われ、色々と吟味してみた。
 本棚を見れば、その人のことがだいたいわかる。どういうことが好きで興味があったのか。こういう場所に行ったのか、それとも行きたかったのか。推理というか、想像とういか。そして並んでいる本をかき分けながら、知らない人のことを考えている自分に気づいた。不思議なもので、生きていたそんな事なんて考えもしないのにね。
 下の方に分厚く、かなり汚れている一冊があったので手に取ってみた。それは英和辞書で、昭和31年に出版された古いものだった。こんな古い辞書なんてみた事がないから、ペラペラとめくりながら色んな項目を読んでみたんだけど、今のものとそう違いは感じられなかった。が、ところどころに赤線が引いてあり、伯父さんが確実に使った跡があった。
 僕が生まれた向こうの文化では、先輩とか上の人から辞書をもらうという文化がある。高いものを皆で使いまわすという事もあるけど、前にこの辞書を使ってきた人たちがどういうものを調べ、勉強をしてきたのかを自分と比較することが出来て、それがいい事とされているんだよね。尊敬する、もしくは好きな人からもらった辞書なら、その人と自分を比べ、より良く勉強をしようとか、その辞書に対し恥ずかしくない存在であろうと思えるんだよね。というわけで僕はその辞書を頂いてきた。昭和31年だからもはや何世代も前の辞書だけど、まだまだ頑張ってもらって、より線を増やしていきたいと思う。

starting over

 浜野の閉店に伴い、今回で最後となるクリニックに参加した。まだ蹴れないからほぼ立っているだけだったけど、多くのことが生まれた場所の締めくくりに参加できて嬉しいあら悲しいやら、である。我々の出会いの場であり、チームのスタート地点である場所が無くなるのは悲しいが、ここで得た確信に近い何か、想い?イズム?思想?価値観的なものは僕の心の中にたしかにあり、僕はそれを信じているので色あせることはない。

 大きな流れの中で見れば、週に一回だけの時間であり、小さな存在だったのかもしれないけど、「サッカーをしてみたい」とか、「フットサルってなんだろう」とか「体を動かしてみたい」と思った時の受け皿って案外少ないんだよね。そう思うと、個人の生活の中での楽しみであり、潤いであった金曜日の20:00~22:00は特別な時間だったと言える。競技思考だろうが、ただの運動レベルだろうが、レベルに関係なくね。今回は施設の閉店という要因だが、こういう時間をずっと維持することが出来ない現状に、フットサルが文化になれない原因があるのだろう。僕も最近はほとんど参加していなかったので悲しむ権利は全くないのだが、重ね重ね残念だ。まあ、その人にやる気さえあればフットサルライフは続いてく。