忘れないために

 ワシントンに行ったときに、見ようと思っていたけど結局叶わなかったのが、エノラ・ゲイを見ることだった。スミソニアンからちょっと離れたところにあるので、ついに見れなかったんだよね。エノラ・ゲイを見たときの自分のリアクションがどんなものなんだろう、とちょっと楽しみだったのだが、分からずじまいで帰ってきてしまった。ひょっとしたら心の中で特別な感情が生まれるんじゃないか、と思ったんだけどね。それでも、戦争に関する展示物はふんだんにあり、アメリカ側から見た戦争のなんたるかをちょっとは感じることが出来た。
 広島を訪れた時には原爆資料館を見学した。リトル・ボーイの展示や有名な黒い雨など、あの日に起きたことの一部を知ることが出来た。フランスに行ったときも戦争博物館を見学した。
 毎年この日になると、これらの展示のことを思い出し、その時撮った古い写真を眺めてしまう。その度に思うのは、戦争の悲惨さを感じるのは難しいな、ということである。いや、ちょっと違うかな。「戦争の悲惨さを通して平和の大事さを伝えること」の難しさ、と言った方がいいのかも知れない。それってあってるのか?と思ってしまうのである。戦争の悲惨さを知らない現代ではそれを感じることは難しく、同時に平和の大事さも感じることが出来ない、って事になってしまうんだよね。この時期になると「平和への誓い」とか「平和への祈り」という言葉が飛びかうけど、言葉が多くなればなるほど空虚な何かが広がる気がして、なんだか複雑である。平和とはなんなのか・・、平和を知るとは何なのか、平和を守るとは何なのか。難しい。

職質

 「警察24時」的な番組って、いつもやっているよね。これだけやっているって事は、好きな人がたくさんいて結構観られているって事なのだろう。あれを観ていると、安全と言われている日本でも色んな事件が起きていて、警察は大変だなあ、と思うのである。
 そういえば、少し前に職質を受けた。特に問題はなく、雑談程度で終わったので嫌なイメージは特にないんだけど、人によってはそうでもないらしい。その次の日ぐらいかな、街の中で警察がやっぱり職質を行っていた。ちょうどその時、電動車椅子が車道を走っているのが見えた。端を走ればいいんだけど、フラフラと車道の真ん中を走っていたんだよね。そのため、その車椅子を先頭に長い渋滞列が起きていた。それに気づいた警官は職質をきりあげ、その車椅子のもとに急いだ。危険な状態でもあったし、乗っているおばさんに一言二言をかけてから車椅子を端に寄せようとしたところ、なんとそのオバサンが手に持っているバッグで警察官の顔を叩いたのである。それもかなり本気でね。どんな会話が交わされたかは不明だが、警官の対応には特に問題がないように見えたので、おばさんが警官を殴るなんて予想もつかずかなりショッキングな映像であった。やべ、警官どうするんだろと思ったら特に怒ることもなく、逆に低姿勢で車椅子に乗ったおばさんを誘導していた。その後、一言二言しゃべっているのが見えたけど、僕の信号待ちは終わりそこを離れたため事の顛末は見れなかった・・。警官も殴られるなんて、思いもしなかっただろうなあ。警察は大変だ。